低空飛行

あるかもしれないし、ないかもしれない

嘘をつかないと大人になれない

わたしは幼少期、かなり嘘をつく子どもだった。なぜ嘘をつくのかといえば、それは怖い大人に怒られたくなかったから、ただそれだけの理由である。

怖い大人というのは、母親であったり、小学校の担任の先生であったり、以前自分が怒られたことがある、あるいは誰かを怒っているのを見たことがある大人であった。わたしは自分の保身のために、ほんの小さな嘘から大きな嘘まで、ありとあらゆる嘘をついた。

 

しかし大人は子どもに「嘘をついてはいけない」と言う。大人たちは狼少年の話や、嘘つきは泥棒の始まりだ、という言葉などで、「嘘をつけば、その代償を支払わなければならなくなる」と子どもたちを脅す。

わたしの周りにいた怖い大人たちも例外ではない。その成果として嘘をついたあとは、子どもながらにいつも大きな罪悪感に苛まれていた。嘘をついてはいけない。嘘をつくことはとても悪いことである。しかしそれでも、嘘をつくことの罪悪感よりも大人に怒られることの恐怖が勝っていたから、幼いわたしは嘘をつき続けていた。

 

ところが小学校を卒業したころから、「実は大人はそんなに怖くないのではないか」と思い始めた。それと同時に怒られるようなことをする機会もめっきり減り、嘘をつく必要がなくなった。

それまで大いなる罪悪感を抱きながら度々嘘をつかざるを得ない状況にあったわたしは、「嘘をつかないことは、なんて精神的に楽なことなのだろう」とそれまで嘘ばかりついていた自分を非常に反省した。そして「もう嘘はつかずに、正直に生きていこう」と心を入れ替え、素直でまっとうな人間になるべく、その後は自制心を必要以上に働かせて生きてきた。

 

ところが、社会は嘘をつけない人間を必要としてはいない。

企業の実施する性格検査には、ライ・スケール(Lie Scale)という、受験者が嘘をついていないかどうかを確認するための設問がある。その中に「これまでに一度も嘘をついたことがない」というものが含まれている。この質問には、絶対に「はい」と答えてはいけない。しかし、一万人に一人、いや十万人に一人くらい、これまで大人の言いつけを守り抜き、嘘をつかずに生きてきた善良な人がいるかもしれないではないかと私は思う。

 

わたしにとっては幼少期の嘘をついた時に抱いた罪悪感が、一種のトラウマのようになっている。嘘をつくことはとてもいけないことで、嘘をついてしまったらその代償を支払わないといけないと今でも思っている。

これまで受けた数社の面接で志望度を聞かれる度に、わたしは「第一志望です。」と答えたし、内々定を出せば就職活動を終えますかと聞かれれば「はい、終えます。」と答えてきた。ひょっとしたらそのような嘘をついた代償に、わたしは未だに内々定を貰えていないのかもしれない。

 

つい数日前に受けたグループ面接で、面接官が最後にひとつだけアドバイスを、とこんなことを言った。

「面接で志望度を聞かれれば第一志望でなくても第一志望と答えればいいし、内々定を出せば就活を終えるかと聞かれれば終えますと言えばいいんです。内々定を貰った後で自分なりに考えて、それで入る会社を決めればいいんですから、そこは構わず嘘をついてください。」

 

嘘をつきなさい、と大人に言われるのは初めてかもしれない、とわたしはぼんやり思った。

子どもは嘘をついてはいけないけれど、大人は嘘をつかなければ生きていけない。嘘をつくということは悪いことでもなんでもなく、お酒や煙草のような、大人になるための一つの通過儀礼にすぎない。